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大阪高等裁判所 昭和54年(ネ)1658号 判決 1985年6月25日

控訴人

岸上ヲサメ

ほか四八名

右控訴人ら訴訟代理人

菅生浩三

葛原忠知

南川博茂

吉利靖雄

川崎全司

吉利紗知子

右訴訟復代理人

川本隆司

藤田整治

甲斐直也

丸山恵司

被控訴人

岸上實一

右訴訟代理人

西本剛

仲野旭

右訴訟復代理人

笹原滋功

主文

一  原判決を取り消す。

二  別紙物件目録(一)記載の土地につき、控訴人らが別紙変更後共有者持分一覧表記載の各共有持分権を有することを確認する。

三  被控訴人は控訴人らに対し、右土地につき、別紙変更後共有者持分一覧表記載の各持分移転登記手続をせよ。

四  被控訴人は控訴人らに対し右土地を引渡せ。

五  被控訴人は控訴人らに対し別紙変更後請求金額一覧表記載の各金員及びこれに対する昭和四九年一月三〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

六  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  控訴人ら

主文同旨

二  被控訴人

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

第二  当事者の事実上の主張

次のとおり訂正、付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、その記載をここに引用する。

一  控訴人ら

(一)原判決添付別紙共有者持分一覧表を当判決添付別紙変更後共有者持分一覧表のとおりに改める。

(二)  原判決添付別紙請求金額一覧表を当判決添付別紙変更後請求金額一覧表のとおりに改める。

(三)  当事者の一部の死亡及び講脱退に伴なう訴訟承継について

(1) 一審原告田辺タネ子は、昭和五〇年九月一六日死亡し、子である控訴人田辺昇同田辺佳与子が同人を相続し、訴訟を承継した。

(2) 一審原告早崎進は、昭和五〇年八月三一日死亡し、妻である控訴人早崎カヨ子、子である同早崎豊子同早崎好修同藪栄子が同人を相続し、訴訟を承継した。

(3) 一審原告東利市は、昭和五一年九月一〇日死亡し、妻である控訴人東セツヱ、子である同東貴代治が同人を相続し、訴訟を承継した。

(4) 一審原告阪口治良一は、昭和五一年五月一一日死亡し、妻である控訴人阪口モヽヱ、子である同阪口良晴が同人を相続し、訴訟を承継した。

(5) 一審原告笠野キヌ同石田清三郎同玉岡フミエ同阪口藤三同辻ヨネ同橋本ミツヱ同西端シズ同寺西ツナ同岡崎節同辻登同脇田正雄同新川茂雄の一二名は、昭和五三年三月三一日から四月一一日までの間に、本件講を脱退し、それらの持分及びこれに伴なう権利一切を残余の講員たる控訴人らに帰属させ、訴訟を脱退したので、控訴人らにおいて請求を拡張した。

(6) 以上により、控訴人らの別紙物件目録(一)の土地(原判決の表示に従い本件土地(一)という)同目録(二)の土地(本件土地(二)という)に対する共有持分の割合は、当判決添付別紙変更後共有持分一覧表のとおりとなり、控訴人らの損害賠償債権の割合は別紙変更後請求金額一覧表のとおり(控訴人らの昭和五五年七月二二日受付変更後請求金額一覧表中、中野フサ子、文野貞、岸上頼仁、藪内八末子、矢野峯子、梅園カツ枝の各金額が一〇三六四〇円となつているのはいずれも一〇二六四四円の違算による誤記と認める)となつた。

(四)  本件土地(本件土地(一)(二)を合わせていう。また右土地の旧表示の土地、すなわち分筆前の土地をいうこともある)の所有名義が岸上兵与茂とされた理由について

(1) 明治政府は、明治六年地券の発布を決定し、土地所有権制度の変革を実施したが、「一地一主」の原則を強行し、一筆の土地については原則として一人の所有者しか認めず共有形式を排除し、地租徴収を容易にしようとした。また、当時本件土地の属する「和泉国日根郡脇浜村」は堺県の管轄下にあつたが、堺県では明治五年六月(地券制度施行の前年)に講禁止に近い布令(甲第二三号証)を出し、更に区長からもこれを出した(ちなみに、講禁止の布令は現在の福島県である若松県や山梨県においても施行された)。しかし、伊勢講は、室町時代以来永年にわたつて行われてきた庶民の親睦、信仰を兼ねる制度であり、講中と称して多数の人々が拠金し、互いに年番で伊勢神宮に参宮して太太神楽を奉納する費用をこしらえた組合であり、村の共同体結合の重要な基盤の一つであつたから、一片の法令によつてたやすく消滅せしめ得るものではなかつた。ただ前記のような法令が出ており、明治政府の一地一主の原則なる政策が存在したため、地券発行の実務を担当した戸長、副戸長らの村吏は違法が露見するような方法、すなわち講有地を共有地として地券を受けるような方法を指導することができなかつたのである。そこで、岸上伊勢講(以下本件伊勢講、本件講、講ともいう)においては、本件土地について、講員の一人である岸上兵与茂名義をもつて地券を受けたものであり、ひいては同人及びその子である兵治郎名義で所有権保存登記を経由することになつたものである。このことは、当時和泉国日根郡脇浜村において本件伊勢講のほかに山上講、大永講、中谷宮座講等の講が存在したが、いずれも講が所有していた田(講田)について個人名義で地券の交付を受けていること、河内国古市郡軽墓村においても同様の事例がみられること、これらの土地は後年第三者に売り渡されたが、そのうち売却代金の処分が判明しているものについてはいずれも講員全員に分配されていることに徴して明らかである。

(2) もつとも、岸上伊勢講は、本件土地のほか、貝塚市脇浜六〇五番一畑一反二畝一二歩(旧称 和泉国日根郡脇浜村六〇五番字古畑畑一反二畝一二歩。以下この土地を六〇五番一の土地又は古畑地という)を所有していたが、この土地については講員の共有名義で所有権保存登記を経由している。しかしながら、岸上伊勢講の一人である岸上市三郎名義で佐々木卯平より古畑地を購入したのは明治一八年四月二七日のことであり、その頃には堺県は廃県となつており(明治一四年二月七日廃県)、講禁止令も自然消滅となつていたから、右のような措置となつたものであろうと考えられる。これについては、もしそうであるなら何故本件土地についても共有名義に戻す措置をとらなかつたのかという反論が出るかも知れないが、当時における村落共同体の信頼関係がわざわざ煩瑣な手続をすることを求めなかつたものであろうと考えられる。また、新たに取得した土地と従来から所有している土地とで取扱いが異なつていたとて別に不思議ではなく、古畑地については旧所有者との関係もあり権利保全の措置を講じ、共有の登記を経由したものであろう。ちなみに、当時脇浜村に存在していた前述の他の講においても、講所有地について共有名義に改めるという措置をとつておらず、処分の時まで個人名義のままにしている。

(五)  為取換約定証書の趣旨について

(1) 甲第三号証と乙第九号証(明治一一年に取交された証書)について

甲第三号証は、まず冒頭に年貢米の額及び納入時期を記し、次にその増額及びその理由を記し、次に「何ケ程之干損水損有之候共」「定米ニテ毎年両度ニ無滞相渡し可申候」と記して凶作の時にも年貢米を確実に納入する旨約束し、更に右義務の履行につき証人を立てている。甲第三号証の保証文言は通常小作請証文に用いられている文言と同様であつて、これは明らかに永小作権ないしはそれより弱い小作権設定の証文であるといわなければならない。もつとも、乙第九号証には「自今貴殿於テ地所ハ御勝手次第ニ永世御所持可被成下候」とあり、兵与茂にこの土地の所有権を認めたかのような記載がないではないが、ここにいう「地所」はいわゆる「上土」に相当するものである。これは後述甲第二号証を見ることにより更に明確となる。

(2) 甲第二号証と乙第一〇号証(明治一四年に取交された証書)について

これらは明治一一年に取交された証書に代つて改めて取り交された契約書である。地租の減少、米価の高騰等によつて講から兵与茂に対し増米を要求したのに対し兵与茂が容易に応じなかつたため、村惣代日出九左与茂が双方を呼んでその趣旨を説得し、村中周知の事実、すなわち本件土地が講有地であることを兵与茂に理解させ、増米を承諾させた経緯を記述している。その結果講は兵与茂側から「本年ヨリ現米壱斗七升五合づつ増加致シ都合五斗弐升五合づつ毎年正月廿六日ニ無滞相納可申候万一壱ケ度ニテ茂不納仕候得は右田地講中へ差戻シ可申候」との確約を取りつけた(甲第二号証)。これに対し講側は兵与茂に対し「本年ヨリ壱斗七升五合づつ増加致し貰候ニ付本年ヨリ毎年正月廿六日都合五斗二升五合宛無滞相納呉候者向後決而右用地ニ付増米勿論引戻杯ハ決而申間敷候」と約束している(乙第一〇号証)。これは、要するに、本件土地は、申し合わせによつて表面上地券の名義人を岸上兵与茂にしているが、実質は講の所有地であること、毎年正月二六日に五斗二升五合づつ年貢として納米する義務があること、講としては岸上兵与茂側が一度でも滞納すれば耕作権を取り上げるが、納米を怠らなければ耕作権を取り上げない旨を相互に確認したものにほかならない。

被控訴人は「永代所持」の文言を強調するけれども、前記のとおり「万一壱ケ度ニテ茂不納仕得は右田地講中へ差戻し可申候」という返地文言が記されているのであつて、兵与茂に付与されている権利は永小作権以上のものではない。このことは、いわゆる分与永小作(永小作権が贈与された場合)の証文例において「畑地無代に永久御譲被下千萬難有奉存候」「永久所持可仕候」というような文言が使われていること(甲第三四号証一一頁)からも実証される。

被控訴人はまた、乙第一〇号証に「萬一自今右田地ニ付彼是故障申者有之節ハ右田地貴殿御勝手次第ニ他ヘ売払代価貴殿弁用ト致呉候共講中一言申分無御座」とある点を強調する。しかし、前述のとおり兵与茂に付与されていた権利は永小作権以上のものではなく、「右田地御勝手次第ニ」以下の部分は土地の処分権限を与えた趣旨に解すべきものではない。前記のとおり、本件土地は講運営の資金を生み出す不動産でありこれを他に処分することは講の活動の否定ないしは講の解散を意味しかねないのであるから、所有権の処分権限を与える筈はない。もしこうした権限を兵与茂に認めたのであれば当然甲第二号証にそのような記載がなければならない。結局右部分の意味するところは兵与茂に対し永小作権を他に処分する権限を認めたのにすぎない。しかもその処分権限にしても「万一自今右田地ニ付彼是故障申者有之節」という場合に限定されているのである。

(3) 右明治一一年と明治一四年に交換された二対の証書の文言を比較対照してみた場合、明治一四年の約定書は明治一一年の約定書に比して兵与茂の権利が弱められており(おそらく、土地の所有権が兵与茂にないことを村総代が言い聞かせたためと思われる)、甲第二号証の返地文言の記載、乙第一〇号証の最後の文言は、これらが小作証文であることを明らかに示している。また、明治一一年のものと明治一四年のものとで趣旨が異なつている場合、「後法は前法に優先する」との一般原則を持ち出すまでもなく、明治一四年のものが当事者の真意を如実に示しているとみるべきものである。

(六)  被控訴人の負担付所有権の取得なる主張に対する反論

(1) 明治六年又は明治一一年当時においては古畑地はまだ購入されておらず、本件土地は岸上伊勢講の唯一の不動産であり、かつ講運営の重要な財源であつた。かかる土地の所有権を負担付にもせよ譲渡することは容易に考えられない。普通贈与がなされる場合には親族関係、恩義、貢献等の特別な関係が存在するものであるが、本件ではそれがない。被控訴人は、従前の永小作関係が所有関係に改められたもののように主張するが、従前の使用収益関係を継続しつつ所有権の移転を行わなければならなかつた特段の事情も発見し難いところである。

(2) 旧幕時代以降の各地の永小作慣行をその法律的性質により分類すると、(イ)用益権たる永小作(ロ)分割所有権たる永小作(ハ)負担付所有権たる永小作の三種に分類されるといわれる。本件において問題となつているのは、兵与茂の取得した権利が右の(ハ)の権利に該当するか否かである。

小野武夫氏「永小作論」によれば、右(ハ)の権利の例が紹介されているが、本件では右書物で紹介されている愛知県旧春日井郡吉根村の龍泉寺とその檀家衆たる百姓との間におけるような開墾という事実もなく、寺院と百姓との間の土地負担というような慣習も存在していない。

また、負担付所有権たる永小作権の場合は本来的に所有権が永小作人にあるのであるから、小作料の不納、滞納の場合に永小作証文に小作料の支払いを請人が引き受けるなどの担保文言が入ることはあつても、土地を返戻するというような文言が入ることは理論上考えられず、そのような文言が入つている実例もない(甲第三四号証九頁参照)。前記龍泉寺の場合も寺院側からの土地引戻しは全く予定されていないのである。

更には、負担付所有権たる永小作権の場合の給付米の名称が問題である。前記龍泉寺の場合はこれを「相続米」という特別の名称で呼んだが、本件では特別の名称は用いられていない。

(七)  講に対する給付米の性質及び当事者の認識について

(1) 伊勢講年貢帳(甲第一〇、第一一号証)によれば、明治一六年から同二六年の間に兵与茂側が講に納入した米は「宛米」「年貢」「定米」と記帳されており、この取扱いは本件訴訟提起の直前まで変つておらず、古畑地の取扱いと寸分違つていない。ところで、この「定米」というのは「掟米」と同義であつて、江戸時代年貢などを地主が出す約束のもとに小作人が反別割に余分に納めた小作米のことをいうのであり(新村出編「広辞苑」」第二版補訂版参照)、この江戸時代からの呼びならわしに準じて使用されたのである。しかのみならず、「年貢」というのは明治以降一般に小作料のことを称する言葉として用いられた(右同書参照)ことはいうまでもない。

(2) 甲第一〇ないし第一三号証(伊勢講年貢帳、同諸勘定帳)に基いて明治一八年度から昭和一五年度(昭和一六年に古畑地は大阪製鎖造機株式会社に売却)までの間における古畑地と本件土地との年貢の納入方法、数量又は金額、金銭納付の場合の換算額を比較してみると、両者の間には全く差異がない。被控訴人が本人尋問で供述するように単なるお供えであれば右各帳簿にみられるような細かな計算がなされることはあり得ない。両者共小作料であつたればこそ右のような取扱いがなされたものである。

(3) 本件土地については一切免引き(年貢の減免)はされておらず、古畑地については免引きしない約定であるにもかかわらず再三免引きされている。しかし、本件土地は田であり、収穫は比較的安定していたが、古畑地は畑であり、植栽されていたのはサトウキビ、サツマイモ、豆等の雑穀で、地味も悪く、収穫は一定せず、そのため耕作者も転々していたのであつて、古畑地を耕作することを誰もあまり好まなかつたため、免引に応ぜざるを得なかつたものと思われる。

(4) 昭和二五年以降貢米が白米五升になつたのは、金銭で九〇〇円位の納付をしてもらうより白米五升の方が価値があつたからである。当時は異常なインフレーションと米不足の時代であつたから、昭和二五年講の集会を再開した際、白米五升をもつて会費の主食をまかない、肴等は講員の均等割でまかなうこととしたものである。当時における米穀の小売価格は政府売渡価格に対し昭和二三年当時約三倍強、昭和二九年当時でも約二倍弱である(昭和二五年における政府売渡価格は玄米五升あたり二九一円八〇銭、小売価格は精米五升あたり六三一円二〇銭である)。昭和二五年当時の取極めについてはこのような時代的背景を考慮しなければならない。

(5) 伊勢講年貢帳(甲第一〇号証)によると、被控訴人の先祖が明治二四年正月二五日宿、明治三五年正月二六日宿、大正一一年正月二五日宿の際に自筆で「年貢」を納入した旨記載していることが認められ、伊勢講勘定帳(甲第一三号証)によると、被控訴人自身も自筆で「年貢」を納入した旨記載している。これらによると被控訴人の先祖及び被控訴人自身講への給付米を年貢と認識していたことが明瞭である。給付米が真実講へのお供えであれば右帳簿にも「お供え」と記載している筈である。

また、被控訴人は昭和四七年一二月一七日頃控訴人岸上完一郎の母が伊勢講田を通つた時呼びとめ、講田が道路敷にかかり市から買収されるので講元さんの耳へ入れておきましようと述べた事実がある。もし被控訴人がその時点において本件土地が自己の単独所有物件であると認識していたのであればわざわざ右のような内容の話をする筈がないと考えられる。

(6) 以上を要するに、被控訴人家の側から本件伊勢講に納付されていた米(金)の性質は小作料であり、講側はもちろん、被控訴人家の側もこれを小作料と認識していたことは明らかである。

(八)  講員の所有者としての認識について

(1) 本件土地の地券等を講で保管せずに岸上兵与茂に保管させ、また講の承諾なくして本件土地について抵当権の設定が行われたなどの事実は、一見控訴人らの主張と相容れぬかのごとく見えないでもない。しかし、それは民法施行(明治三一年七月一六日)後の法的観念から見てのことであつて、兵与茂家が室町時代からの村落共同体の一員であつて講員との間に深い信頼関係親睦関係があつたことや兵与茂が講元岸上市治郎と親戚関係にあつたことなどに照らせば、別に異とすべきことではない。

(2) 本件土地の公租公課は兵与茂及びその子孫が負担している。しかし、公租公課は登記名義人に賦課されるものであり、本件土地の所有名義が兵与茂にあつた以上、右の点は敢て異とするに足りない。なお、本件土地については、兵与茂の側が公租公課を負担している分だけ、年貢が低廉になつているのである。

(3) 伊勢講諸勘定帳(甲第一二号証)の最後の部分に「講中処有之畑 脇浜邑六百五番地 字古畑」なる記載があるが、本件土地の記載がないことは被控訴人主張のとおりである。しかし、伊勢講年貢帳(甲第一〇号証)の明治二〇年正月の記載では「大谷講中田」とあり、同じく明治二六年の記載では本件土地が古畑地と共に「伊勢講地」とあるのである。前記甲第一二号証には明治一五年九月から大正一三年三月(甲第一三号証が作成された時)までのことが記載されていることからして、講が明治二一年に古畑地を取得した際講員の誰かが心覚えのため右のような記載をしたものと思われる。

(4) 兵与茂及びその子孫は明治の初年以来昭和四八年まで第二次大戦中の一時期を除いて小作料の支払いを滞るようなことはなかつた。また本件土地が伊勢講の所有であることも認めていた。昭和二八年及び昭和三七年における土地の一部処分については被控訴人から講に連絡がなかつたし、場所は畦畔で面積も狭少であつた(昭和三七年の場合は護岸工事を伴つていた)から、他の講員は右処分を知らなかつたものである。また、小作料は米五斗二升五合を各納入時の換算レートで金銭に計算し直して納められ、その金額は米価水準に比例して漸増し、その額は講の費用を賄うに足りる程度のものであつた。戦後の農地改革の際もすべての小作地について買収措置がとられることになつていたわけではない(自創法第三条一項五項参照)。

以上のような状況であつたのであるから、本件土地の管理処分について伊勢講講員が特別の関心を示さなかつたとしても別に不自然ではないのである。

(九)  本件土地(二)の所有権喪失原因について

本件土地(二)は本件伊勢講の講員の共有であつたところ、被控訴人は右土地の登記上の所有名義が自己にあることを奇貨として、昭和四八年六月一三日これを自己所有の土地であるとして貝塚市土地開発公社に売渡し、昭和四九年一月三〇日所有権移転登記を経由し、売買代金一三六五万円を受領したのであるが、右開発公社は本件土地(二)が本件伊勢講の講員の共有であることを知らず被控訴人の所有であると信じていたので、右講員らはそれぞれの持分権を喪失し、持分に応じた金額相当の損害を被つたものである。

(一〇)  取得時効の主張に対する反論

被控訴人は予備的に時効による所有権の取得を主張するが、岸上兵与茂、兵治郎、兵太郎及び被控訴人の本件土地(一)(二)についての占有は所有の意思をもつてするものではないから、取得時効は成立していない。すなわち、被控訴人らの先代ら及び被控訴人は、明治初年より本件訴訟が提起される直近まで代々間断なく年貢米の支払いを続け、永小作人として本件土地を占有してきたものであり、被控訴人が右土地が自己の単独所有であると主張しはじめたのは、右土地の一部が貝塚市土地開発公社に買取られたころからにすぎない。

(一一)  知事の許可について

本件土地の共有者らが被控訴人に対し本件土地の使用収益権を取消す旨の申入れをなすに際し知事の許可を得ていないことは認める。

二  被控訴人

(一)  訴訟承継について

控訴人ら主張のとおり一審原告中一部の者が死亡し、又は脱退し、訴訟承継があつた事実は認める。

(二)  本件土地の所有名義が岸上兵与茂とされた理由について

(1) 本件土地は岸上伊勢講の所有であつたが、明治六年地券発行に際して被控訴人の先租岸上兵与茂が伊勢講より譲渡を受け、同人に対し地券が交付され、所有者となつた。伊勢講より譲渡を受けるに際し、兵与茂は本件土地から収穫する米穀のうち毎年一定量を講に納めることを約したが、これは小作料でなくして所有権移転に伴なう一定の負担にすぎない。

(2) 控訴人らのいわゆる講禁止令なるものは、堺市、貝塚市はもとより大阪府の府史又は市史にも記載されておらず、藤井寺市道明寺天満宮に存する布令写帳に基づくものであつて、仮に施行されたとしても、どの程度威令をもつて施行されたか疑問である。もしその影響が現実にあつたとすれば、本件であらわれている諸文書に記載があつて当然である。むしろ、明治新政府は明治元年神佛分離令を公布し(ためにいわゆる廃佛棄釈運動により多数の寺院が廃止統合され佛具経文の破壊が行われた)、神道を国是としていたから、伊勢講を禁止する筈はない。この布令なるものが真実一般的に施行されたとすれば、堺県において何例も発見できるであろうと思われる。

(3) もし控訴人ら主張のごとき事情であつたとすれば、本件土地についても当然古畑地のごとく講員の共有名義の登記が経由されていた筈である。

(三)  為取換約定証書の趣旨について

(1) 乙第九号証と甲第三号証(明治一一年に取交された証書)について

乙第九号証には「明治十年迄ハ現米弐斗づつ貰請来リ候処、今般地租改正ニ付、双方示談之上、本年ヨリ壱斗五升増加致し貰、都合前書通三斗五斗づつ毎年両度ニ相渡し呉候江は、自今貴殿於テ地所ハ御勝手次第ニ永世御所持可仕成下候、萬一地面ニ付彼是故障申者有之節ハ調印之我等罷出急度埒明貴殿へ少し茂御迷惑相懸ケ申間敷」云々とあり、地所は永世兵与茂に於て所持することを明言している。「所持」は「所有」を意味することは明治五年太政官布告第五〇号「地所永代売買ノ儀従来禁制ノ処自今四民共売買所持候儀被差許候事」(乙第一一号証の二参照)の文言から明らかである。「萬一地面ニ付彼是故障申者有之節ハ」の文言は江戸時代から当時に至るまであらゆる証文に必らず記載された保証文言であつて、「永世御所持」を明らかに保証しているのである。控訴人らは「地面」とあるのは「上土」と解すべきであると主張するが、「上土」ならば「地所」と書かずに「上ハ土」と記載する筈である。「上土」「底土」権なる概念は判例上民法一七五条同施行法三五条から物権法定主義上否定されており、貝塚地方において定着した概念ではないし、一体「地所」とあるのを強いて「上土」と解すべき根拠はない。この乙第九号証に対して甲第三号証(岸上兵与茂が講元講中に差入れた分)には「右ハ昨十年迄現米弐斗づつ相渡し来リ候処今般地租改正ニ付双方示談之上本年ヨリ壱斗五升増加致し都合前書三斗五升ハ何ケ程ノ天損水損有之候共定米ニテ毎年両度ニ無滞相渡し可申候万一本人等閑之節ハ此証人ニ引請急度相渡可申候」とあり、所持承認の負担である米穀の納付を三斗五升と定めて豊作凶作の別なく納付することを約している。控訴人は「定米」を「江戸時代年貢などを地主が出す約束の下に小作人が反別割に余分に地主に納めた小作米」であると主張するが、本件においては地租は地券の交付以来講ではなくして兵与茂が負担しているのであるから、その前提が間違つている。小作料とは異なるので減免してくれなどとは要求せず、一定額の負担として「無滞相渡上可申候」と約束したのである。すなわち、右にいう「定米」とは一定額の米穀の負担を意味するのであり、小作料を意味するのではない。

要するに、右乙第九号証と甲第三証により、兵与茂において講に対し豊凶にかかわらず毎年三斗五升宛を納付すること、本件土地は負担付所有権として兵与茂に譲渡することが約され、地所は兵与茂の所持とされたものである。

(2) 乙第一〇号証と甲第二号証(明治一四年に取交された証書)について

右証書によつて本件土地が負担付所有権として兵与茂に移転された趣旨は更に明確となる。

乙第一〇号証は、まず、明治一一年証書の作成に至る経過と取換約定の内容を記述している。すなわち、明治六年地券発行に際して講中相談の上で地券を兵与茂に於て交付を受け毎年二斗宛を納入していたこと、明治八年に地租の改正があり、更に地租が減少となり収穫が多分であつたので、明治一一年に講元・講中惣代が増米を依頼し、年三斗五升宛と定めたことを記述した上、「同年ヨリ現米三斗五升宛相納メ呉候江は右田地ハ貴殿ニ永代所持為致決而後日故障口論迷悪等相懸ケ申間敷之ニ為取換一札差入有之処」と記載している。続いて、今般米価が格別高値につき増米方の交渉をしたが、前の約定があることを以て承知されなかつたので、三人の仲人を立てて依頼した末、村役前に於て説得を受け、都合五斗二升五合と定めたが、「向後決而右田地ニ付増米勿論引戻し抔ハ決而申間敷候万一自今右田地ニ付彼是故障申者有之節ハ右田地貴殿御勝手次第ニ他ヘ売佛代価貴殿弁用ト致呉候共講中一言申分無御座」と記載している。「万一」以下は保証文言であつて正に明治一一年の取換約定に重ねて被控訴人先々々代及び先々代に対しその所有であることを確言した文言である。控訴人らは、右の「田地貴殿御勝手次第」云々とあるのを永小作権の処分を認めた趣旨と解するごとくであるが、明らかに字義から離れるのみならず、そのような当然のことをわざわざ講中が連署して証書に記載する筈がない。

右証書に対応する兵与茂差入れにかかる取換約定証書(甲第二号証)を見れば、その関係はより明確である。すなわち、「右之田地古来ヨリ講中所持ニ候処去ル明治六年中地券発行ニ付示談ノ上地券我ガ名義ニ致シ永代作仕候ニ就テハ」と記載し、明治六年地券発行に際し講中の合意を得て地券名義を兵与茂として交付を受け、永代作をし、年毎に現米二斗宛を納めて来た趣旨を記述の上、「去ル明治十一年ヨリ現米壱斗五斗宛相増シ都合三斗五升づゝ毎年相納可申約定相整候ニ就テハ向後共我ガ右田地永代所持為致自今増米ハ勿論迷悪等相掛ケ申間敷云々為取替約定之証申請有之処」とあり、明治一一年には従前の永小作が都合三斗五升を年毎に納付することによつて永代所持すなわち負担付所有権の移転となつたことを明らかにしている。続いて、前記の乙第一〇号証と同じく「又候本年講中相談の上増米致呉抔ト引合ニ相成候江共去ル明治十一年中為取換約定書ニ基キ増米不相申候処夫ヨリ」仲人を立てて「御依頼に相成り候江共講中へ対シテハ増米致シ不申候江共仲人ノ廉ヲ以テ其ノ際ニ現米壱斗増加致候旨申候処示談行届不申候ニ付其末」村役の前において説得を受けて都合五斗二升五合と定めて「毎年正月二六日ニ無滞相納申候万一壱ケ度ニテ茂不納仕候江は右田地講中へ勿々戻し可申候」と確約している。

控訴人らは「勿々戻し」の文言をもつて小作地の「返地」の趣旨に解するが、もしそうであればむしろ講側の権利として乙第一〇号証に記載しておくべきであるのにそのような記載はなく、「引戻抔」の文言はあるがその趣旨は返地を要求しない趣旨を強調して用いられているのである。負担付で所有権の移転を受けた者がその負担の履行をしない場合、負担義務の不履行に基づき所有権移転契約が解除されるべきは当然であるから、「勿々戻し」の文言は負担付所有権の取得に対する負担部分の履行を確約したのにすぎないと解すべきである。

また、控訴人らの主張するように耕作権(上ワ土権又は永小作権に近いもの)を設定したのにすぎないのであれば、証書に当然その旨が記載されている筈であるのに、本件為取換約定証書にはその記載はない。

(3) 控訴人らの主張は、要するに、兵与茂側の権利は耕作権にすぎず、右各約定証書は小作料の値上げについて取り極めた書面であるというに帰する。

しかし、取り極められた合意がそのようなものにすぎないならば、わざわざ双方から念入りな証書を取り交すまでの必要はなく、せいぜい兵与茂側から小作料の値上げを承諾する旨の書面を徴すれば足りた筈である。古畑地については、耕作者が転々と変つているうえ、度々小作料の免引が行われており、その都度耕作者と講側とで話し合いがなされていたと推測されるが、本件のような約定証書が取交された形跡はない。また、右約定証書作成の目的が控訴人ら主張のようなものであるならば、供米が小作料であることを明記すべきであると思われるが、文面はかなり詳細なものであるのにそのような表現は見当らないのである。

たしかに、講は強い信頼関係で結ばれた集団であるが、事柄が村中周知の事実であるとか講員相互の共通の認識とかいつたことで済ましておけない重大問題、すなわち所有権の負担付移転という問題であつたればこそ、その合意につき書面を取り交わしたものである。ことに、明治一四年証書に至つては、講側からは兵与茂を除く講員全員が連署し、兵与茂側では証人四人が連署しており(ただし乙第一〇号証では宛名が兵与茂の継嗣である兵治郎になつている)、いずれの書面にも村総代が「前書之通相違無御座候」と奥書しているのであつて、そこに取り交された合意の内容が極めて重大な問題であつたことを物語つている。単なる小作料の値上げの問題であつたのであればかかる証書が差し交される筈はない。本件講としては、片や本件土地の負担の履行につき当主である兵与茂から直接約定書を徴し、片や本件土地の「所持」を永世保証する趣旨で講側の約定書を継嗣たる兵治郎に差入れたものであると推測されるのである。

(四)  講に対する給付米の性質及び当事者の認識について

(1) 控訴人らは、伊勢講年貢帳(甲第一〇、第一一号証)に「年貢」「宛米」「年貢宛米」等と記録されていることから、その本質が「年貢」すなわち小作料であると主張する。

しかし、右年貢帳は、伊勢講の年間の財政収入をその時々の記帳者が事務的に書き記した備忘記録であり、そこに記録されたものがいわゆる「年貢」に限られていないことは年貢と性質を全く異にする「浜利益」についての記帳があることからも明らかである。また、その内容を一瞥して明らかなように、そこでの記載は従前からの記載方法を事務的に踏襲していつたものにすぎず、本件の供米が毎年定められた一定量を講に対し納米する形態をとつていることから、年貢帳の記帳者がその給付の性質を深く詮議することなく古畑地の小作料収入と同一表現形式で年貢帳に記載していつたものである。したがつて、年貢帳に「年貢」「宛米」等と記載されていることから直ちにそれが負担でなくて小作料であると決めつけてしまうことはできない。

(2) 本件の供米が小作料でないことは次の点からも裏づけることができる。伊勢講年貢帳によると、講有地である古畑地の場合は、地租その他土地所有に伴なう負担はすべて講元において取替えて支払い、年貢納入の際その年貢中から構元の取替分を填補するという会計処理がなされており、このような処理は岸上伊勢講が古畑地を取得した明治一九年度から同土地を大阪製鎖造機株式会社に売却した年の翌年である昭和一七年度まで続いている。これに対し、本件土地の地租その他の負担の支払関係については伊勢講年貢帳は全く触れるところがない。このことは、古畑地についての講に対する納米の義務が名実共に年貢=小作料(本来地主が負担すべき公租公課分を加算して小作人が地主に支払う土地使用の対価)であること、本件土地についての講に対する納米義務が右と性質を異にした納付義務であることを物語るものである。もつとも、講有地の場合でも一応形式上の名義人である耕作者が公租公課を立替払いする例もあるようであるが、かかる場合でも、後の年貢納入に際しその年貢中から公租公課分の払い戻しを受けるのが例である。しかし、兵与茂側は一度たりともこのような払戻しを受けたことはない。

(3) また、伊勢講年貢帳(甲第一〇、等一一号証)によれば、古畑地については年貢の免引はしない約束であつたのにもかかわらず度々免引が行われている。本件土地については凶作時にも例外なく正味五斗二升五合分の納入がなされており、一度たりとも免引が行われていない。このことは、本件土地の供米が古畑地の年貢とは異質のものであり、土地の収穫の豊凶にかかわらず定額により納付されるべき土地の負担であり、減免の対象となり得ない性質のものであることが双方の共通の認識となつていたことを物語つている。

(五)  講員の所有者としての認識について

(1) 伊勢講諸勘定帳(甲第一二号証)の最後の数葉に「講中処有之畑」として古畑地のみ記載され本件土地は記載されていない。これは本件土地が講所有地として認識されていなかつたことを示している。

(2) 控訴人らは伊勢講年貢帳(甲第一〇号証)に本件土地の記載があることをもつて本件土地が講所有地として認識されていたことの証拠であると主張する。しかし、右帳簿は年貢に関する記録簿であり、年毎に納付を受ける米穀の金銭換価分を古畑地と本件土地に分別するものであるにすぎない。

(3) 本件土地については、明治四一年に岸上兵治郎が借財のため抵当権を設定したのを最初に、その後数回にわたつて抵当権が設定されている。もし、控訴人らの主張するように、大谷地が講のものであることが村中周知の事実であつたとすれば、講中の承諾もなくこれを担保に供した事実は当然大問題になつた筈であり、それこそ村八分にされかねなかつたと思われる。しかるに、講員の間ではこのことが容認され、話題にすらならなかつたのであつて、このことは大谷地の所有権が被控訴人家に存していたことを示している。

(六)  右(二)ないし(五)の主張の要約

以上のとおりであるから、被控訴人の先租である岸上兵与茂は、明治六年の地券発行の際、岸上伊勢講より毎年一定の米を給付するという負担付で本件土地の所有権の譲渡を受け、所有者となつた。仮りにそうでないとしても、岸上兵与茂は明治一一年の為取換約定証書の交換の際、岸上伊勢講より負担付で本件土地の譲渡を受け、その所有者となつた。そしてその後本件土地は逐次相続により後継者に承継されて被控訴人に至つたものであり、本件土地は被控訴人の所有に属する。

(七)  被控訴人が昭和四八年九月一二日に支払った金二〇〇万円の趣旨について

控訴人らは、右金二〇〇万円は土地売渡代金の一部として受領したものである旨主張するが、事実に相違している。すなわち、被控訴人は、昭和四八年七月二三日阪口治良一より、同人及び控訴人上野茂三郎同石原武雄の三名が伊勢講の代表者に選任されたが被控訴人が講に対し負担している年五升の供米義務を一時金で解決したらどうかとの交渉を受けた。そこで右三名と折衝の末、供米義務を将来に向つて免除する代償として同年九月一二日金二〇〇万円を支払つたものである。

(八)  取得時効に必要とされる所有の意思について

被控訴人の先代ら及び被控訴人は、地券(乙第七、第八号証)及び為取替約定証書(乙第九、第一〇号証)を本件土地の所有権を証明する重要文書であるとして代々相傅し、これらを大切に保管し、永年にわたり登記上の所有名義を保持し、自己の所有地として耕作し、農業委員会に自作地としての届出をなし、自ら公祖公課を払い、戦後の農地改革の際も小作人としての処理をしなかつたものである。したがつて、被控訴人の先代ら及び被控訴人の本件土地の占有が所有の意思に基づくことは明らかである。

第三  当事者の証拠の提出援用認否<省略>

理由

一<証拠>を総合すると、次のとおり認めることができる。

(一)  本件土地(一)(二)の旧表示は、(1) 和泉国日根郡脇浜村一〇一番地字大谷田一反二一歩(外一五歩畦畔敷)、(2) 同村一〇〇番地字ヲウタニ田五畝二四歩(外八歩畦畔敷)で、これらの土地は明治以前から脇浜村在住の農民によつて構成される「伊勢講」という団体の所有(一種の合有と観念される)であつた(このことは当事者間に争いがない)。

(二)  「伊勢講」とは、脇浜村(現在貝塚市脇浜)在住の農民二〇名位によつて構成され、その所有する田畑からの収益によつてその講員が数年に一回順次伊勢神宮に詣ること(これを「代参」といつた)を第一の目的とし、また、これに代り毎年二回ないし三回順次講員宅に集合して床の間に天照皇太神の掛図を掛けてこれを祭り、そのあと会食をして親睦をはかる(この会合を「宿」といつた)ことを目的とする団体である。「宿」は昭和一八年ごろまでは年三回開かれたが、昭和一九年ごろ以降は年一回となり、昭和四八年まで(ただし、昭和二一年から昭和二四年までは休会)開かれていた。明治初年当時の講員は岸上徳治郎、神前喜佐与茂、高田長与茂、早崎惣与茂、岸上兵与茂、神前重治郎、橋本与平、橋本庄造、神前為次郎、上野茂作、東忠平、阪口米五郎、戸田太三郎、石原徳治郎、石田清三郎、阪口忠平、辻半与茂、半野米吉、脇田作平、新川新治郎の二〇名であつた。講の代表者を「講元」といい、石岸上徳治郎及びその家督相続人が累代これをつとめることになつており、現在その子孫の控訴人岸上完一郎が講元であつて、地元では講元の名をとつて「岸上伊勢講」とも称していた。講員が死亡したときは、その家督相続人が当然その地位を承継して新たな講員となることになつていた。

(三)  明治五年二月一五日、太政官布告第五〇号により従来禁止されていた田畑の永代売買と所持が四民に許可され、同月二四日、これに基づく大蔵省布達第二五号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」が発布され、さらに同年七月の布達で全国一般の私有地に全部地券(土地所有証書)が交付されることになつた。

(四)  地券発行に際し、岸上伊勢講の講員らは協議の上、本件土地の地券名義者を耕作者であつた岸上兵与茂とすることを決め、それに伴ない岸上兵与茂は伊勢講に対して本件土地からの収穫米中毎年二斗ずつを講に納付することを約した。そこで岸上兵与茂は、明治六年、本件土地につき地券を交付された(地券が岸上兵与茂に交付されたことは当事者間に争いがない)。以後本件土地は一貫して岸上兵与茂及びその後継者によつて耕作された。

(五)  岸上兵与茂は、明治三六年一二月一八日死亡し、長男岸上兵治郎が家督相続し、同人は大正元年一一月二三日死亡し、長男岸上兵太郎が家督相続し、同人は昭和一八年一二月六日隠居して、長男の被控訴人が家督相続した。前記の(一)(1)の土地は、貝塚市脇浜字大谷一〇一番一田一反一畝六歩として、明治三〇年四月一二日、岸上兵与茂名義に所有権保存登記され(このことは当事者間に争いがない)、明治三六年一二月二一日岸上兵治郎に、大正五年二月三日岸上兵太郎に、昭和四〇年二月一八日被控訴人に、順次家督相続を原因として所有権移転登記が経由された。前記(一)(2)の土地は、貝塚市脇浜字大谷一〇〇番一田五畝二九歩として、明治三六年一二月二三日、岸上兵治郎名義に所有権保存登記され(このことは当事者間に争いがない)、昭和七年三月二三日岸上兵太郎に、昭和二八年五月一九日被控訴人に、順次家督相続を原因として所有権移転登記が経由された。

(六)  岸上兵与茂から伊勢講に対し納付される米穀は、明治六年以降毎年米二斗であつたが、兵与茂と講との協議により、明治一一年から米三斗五升、明治一四年から米五斗二升五合になつた。明治一八年ごろからは、米穀に代りその価格に相当する金銭を納付することと定められ、これらは代参の費用や宿の経費に充てられた。昭和二五年ごろには、岸上兵太郎と講元との協議により、当時の食糧難の情勢からそれまで納付していた金銭に代えて毎年白米五升づつを納付することになり、被控訴人は昭和四八年まで毎年講に対して白米五升ずつを納付し、この白米は宿が開かれた際の会食用に充てられた。

(七)  前記(一)(1)(2)の土地については、所有名義人の岸上兵与茂、岸上兵治郎、岸上兵太郎、被控訴人らがその地租、固定資産税を負担し支払つてきたもので、伊勢講がこれを負担したことはなかつた(このことは当事者間に争いがない)。なお、昭和七年の地租名寄帳(乙第一四号証の二)にも納税義務者は岸上兵太郎と記載されている。右(五)の一〇一番一の土地については、明治三四年から昭和一二年までに八回、前記(五)の一〇〇番一の土地については、明治四一年から同四三年までに四回、当時の所有名義人によつて抵当権の設定が行われているが、これら抵当権設定について伊勢講が関与した形跡はない。戦後の自作農創設特別措置法、農地法の施行に際しても、控訴人ら、被控訴人とも小作地として措置をとつておらず、農業委員会には自作地として届出されている(このことは当事者間争いがない)。前記(五)の一〇一番一田一反一畝六歩については、昭和三七年一一月一三日、一〇一番一田一一〇七平方メートルと一〇一番二田三・三〇平方メートルに分筆され、右一〇一番二の土地は同月二六日(原因同年六月一日寄付)、貝塚市に所有権移転登記され、右一〇一番一田一一〇七平方メートルの土地は、昭和四九年一月三〇日、一〇一番一田三八九平方メートル(別紙物件目録(一)(2)記載の土地)、一〇一番三田三〇九平方メートル(同目録(一)(3)記載の土地)及び一〇一番四田四〇八平方メートル(同目録(二)(2)記載の土地)に分筆され、右一〇一番四の土地は同日(原因昭和四八年六月一三日売買)、貝塚市土地開発公社に所有権移転登記された。前記(五)の一〇〇番一田五畝二九歩については、昭和二八年五月に一〇〇番一と一〇〇番二田六・六一平方メートルに分筆され、右一〇〇番二の土地は同月一九日(原因同年二月五日売買)、国(建設省)に所有権移転登記され、右分筆後の一〇〇番一の土地は、昭和三七年一一月一三日、一〇〇番一田五七一平方メートルと一〇〇番三田一九平方メートルに分筆され、右一〇〇番三の土地は同月一六日(原因同年六月一日寄付)、貝塚市に所有権移転登記され、右一〇〇番一田五七一平方メートルの土地はさらに、昭和四九年一月三〇日、一〇〇番一田五四九平方メートル(同目録(一)(1)記載の土地)と一〇〇番四田二二平方メートル(同目録(二)(1)記載の土地)に分筆され、右一〇〇番四の土地は、同日(原因昭和四八年六月一三日売買)、貝塚市土地開発公社に所有権移転登記された。これらの処分は、いずれも、当時の所有名義人が土地の一部を道路に提供するために行つたものであるが、これらの処分に伊勢講が関与したことはなかつた。

(八)  明治一八年四月二七日、当時の本件講の講員二〇名は、岸上市三郎の名義で、和泉国日根郡脇浜村六〇五番字古畑の畑一反二畝一二歩(六〇五番一の土地の旧称。以下これを古畑地ともいう)を佐々木卯平より買受け、明治二〇年一月右二〇名の共有である旨を大阪府南・日根郡長に届け出た(この土地が本件伊勢講の所有であつたことは当事者間争いがない)。右古畑地は昭和七年の地租名寄帳(乙第一五号証の二)に納税義務者として「岸上市三郎外一九人」と記載されており、地租、固定資産税は伊勢講から支払われた。その耕作者は一定しておらず、二年又は三年で交替し、また講員以外の第三者が耕作することもあつた。昭和一六年一一月二五日右古畑地は当時の講員二〇名の名義に所有権保存登記された上、同年一二月五日、大阪製鎖造機株式会社に売り渡されて同日同会社に所有権移転登記され、その代金は講の経費に充てられた。

以上のとおり認めることができ、右認定に反する証拠はない。

二本件土地が明治初年頃岸上伊勢講の講員二〇名の共有であつたことは前述のとおり当事者間争いがなく、本事件の主たる争点は、明治六年もしくは明治一一年に被控訴人の先々々代岸上兵与茂が伊勢講より取得した権利が、果して被控訴人の主張するように負担付所有権であつたか、それとも控訴人らの主張するように永小作権ないしこれより弱い権利であつたかにある。

(一)  前記甲第二、第三号証、乙第九、第一〇号証によれば、次のとおり認めることができる。

(1)  岸上伊勢講と岸上兵与茂は明治一一年二月二五日「為取換約定証書」と題する証書を取り交した。講元の岸上徳治郎から岸上兵与茂に差し入れたものが乙第九号証であり、岸上兵与茂より講元岸上徳治郎に差し入れたものが甲第三号証であつて、その内容は別紙のとおりである(以下この両証書を明治一一年証書ともいう)。

(2)  明治一四年三月七日講と兵与茂は再び為取換約定証書(ただし後記乙第一〇号証は為取替約定証書となつている)を取り交した。岸上徳治郎外一九名から岸上兵治郎(兵与茂の後継者)に差し入れたのが乙第一〇号証であり、岸上兵与茂より伊勢講に差し入れたのが甲第二号証であつて、その内容は別紙のとおりである(以下この両証書を明治一四年証書ともいう)。

(二)  前記甲第一二号証及び同第一〇号証によれば、次のとおり認めることができる。

(1)  本件伊勢講の帳簿である「明治十五年九月吉日 伊勢講諸勘定帳」(甲第一二号証)には、明治一五年正月から大正一二年旧九月までの諸勘定その他が記載されているが、諸勘定に関する経常的記載のあとの丁(帳簿のほぼ終あたり)に「講中処有之畑 脇浜邑六百五番地字古畑 一 畑壱反弐畝拾二歩」云々の記載がある(「処有」とは所有の意であると思われる。そこには本件土地、すなわち大谷の田に関する記載はない)。

(2)  他方、やはり本件講の帳簿である「癸明治十六年正月吉日 伊勢講年貢帳」(甲第一〇号証)の明治二〇年正月二六日の欄には「記 大谷講中田 一 米五斗貳升五合 右代金貳円三拾壱銭 右者大谷田年貢 岸上兵右門ヨリ納る」との記載がある(この講中田とは講の所有田を意味するものと解する。同年貢帳の明治二〇年一二月三〇日の欄には「字古畑 一 宛米九斗 此年貢四円四拾銭替へ 右代金 三円九拾六銭 右者講中畑年貢」とあり、古畑地が「講中畑」と表現されている)。また、明治二六年度の欄には「伊勢講地年貢 字大谷 一 宛米五斗貳升五合 此代金 四円六銭八厘 岸上兵右茂(註、一字又は二字不明)請取 字古畑 一 宛米九斗也 此代金六円九拾七銭五厘 神前喜左与茂(註、一字又は二字不明)請取」なる記載がある(これによれば、「伊勢講地」として本件土地と古畑地とが併列的に記載されている)。

(三)  前記甲第一〇ないし第一三号証、控訴本人高田吉松同岸上完一郎の各原審供述、被控訴本人の原審及び当審供述によれば、次のとおり認められる。

(1)  前記の癸明治十六年正月吉日伊勢講年貢帳(甲第一〇号証)の冒頭には「明治十六年 岸上兵右衛門(兵与茂を指すと思われる) 正月廿六日 宛米 一 五斗二升五合 入請候」の記載がある。また右帳簿及び明治十五年九月吉日伊勢講諸勘定帳(同第一二号証)、大正一三年三月吉日伊勢講諸勘定帳(同第一三号証)によれば、本件土地についての講への納付米(金)は、「宛米」、「年貢」、「年貢宛米」なる表現で記載されており、それが昭和四八年まで継続している。

(2)  右記載は、被控訴人の先代らが宿をした際の記録においても同様であつて、それらの記載は被控訴人の先代らにおいて自らこれをしたか、又は他の者が記載したところを閲覧の上了承したものと思われる。たとえば、「明治弐拾四年度 岸上兵右茂 年貢 字大谷 一 定米五斗弐升五合 此代金参円八拾八銭五厘 明治弐拾五年正月廿六日請取」「明治参拾五年正月廿六日 岸上兵与茂宿 明治参拾四年度年貢 字大谷 一 宛米五斗二升五合 此代金五円七拾弐銭 岸上兵与茂ヨリ入」「大正十壱年正月廿六日 岸上兵太郎宿 一 弐拾円弐十一銭 字大谷年貢 五斗弐升五合 大正十年度分 岸上兵太郎ヨリ」(以下甲第一〇号証)「昭和参拾参年正月廿六日 岸上兵太郎宿 一、白米五升 岸上兵太郎より年貢として入る」(同第一三号証)などと記載されている。右の昭和三三年一月二六日岸上兵太郎宿分の記載は被控訴人本人の直筆である。

(四)  前に認定した本件土地及び古畑地の旧表示、右甲第一〇ないし第一三号証、控訴本人高田吉松同岸上完一郎の各原審供述、被控訴本人の当審供述によれば、次のとおり認められる。

(1)  本件土地の面積は旧表示で計四九五坪で納付米の量は五斗二升五合(明治一四年以降)、古畑地の面積は旧表示で三七二坪で納付米の量は九斗であるから、単位面積に換算すると、納付米は古畑地の方が二・二八倍の割高となる。本件土地が田で古畑地が畑であることを考慮すればその差は更に著しくなる。

(2)  古畑地は水利が悪く、天候により収穫が変動するので、耕作者は必ずしも小作を喜ばず、再三耕作者が交替した。古畑地については免引(小作耕の減免)をしない旨の約定があつたのにかかわらず再三免引が行われ、明治一八年より昭和一五年までの間に二四回(二四箇年度)免引が行われている。

(3)  本件土地、古畑地とも納付米は実際上金銭によつて納められているが、納付米の金銭に対する換算率は明治一九年から昭和一五年までの間にほぼ同様である(ぴつたり一致する場合もあるが若干差がある場合もある)。

(五)  <証拠>を綜合すると、次のとおり認めることができる。

(1)  明治初年頃和泉国日根郡脇浜村には、本件の岸上伊勢講に類似する講として、山上講及び大永講があり、伊勢講ではないが講の一つとして中谷宮座講(宮座とは西日本に多い氏神祭祀に関する特権的団体で共有財産を有する場合がある)があつた。

山上講は、脇浜村宮西に田二畝二〇歩を所有していたが、この土地は明治八年以前にその講員と推認される辻半与茂の所有名義となり、明治二七年九月二九日遺産相続を原因として登記上辻楠太郎名義となり、明治三一年譲与を原因として辻岩吉名義となり、明治四〇年一月二三日には浜田政吉名義に所有権移転登記され、大正五年八月五日摂津紡績株式会社に売渡され、同会社に所有権移転登記された(この売却代金がいかに処分されたかについては的確な証拠がない)。

大永講は、明治一二年五月二六日金目善六から日根郡石才村鎗屋田六一四番の田三畝一六歩を購入した(代金は二三円でその割前は講員一円ずつであつた)が、この土地の所有名義は講員一人である林文右衛門(勘文与茂)とされ、同人名義で地券を受け、所有権移転登記され、同人は米五斗を年貢として講へ納めた。この土地は同人の相続人へ逐次相続されたが、同人らは宛米(年貢)をいつたん講へ納め、その宛米代金のうちから公租公課分を受領していた(もつとも林文右衛門ははじめから公租公課分を差引いた額を納入したこともあつた)。右土地の一部は林文右衛門の孫にあたる林為吉の代の明治四四年に汽車道に宛てるため売却されたが、その代金一円八三銭は講へ納められ、林為吉には手数料の名目で金三〇銭が支払われた。右土地の残りの土地は林為吉の子の林富蔵の代の昭和四〇年四月二一日に登幹雄・磯子に売却された(この代金がいかに処分されたかについては的確な証拠がない)。

大永講は、別に脇浜村古畑にも畑五畝二〇歩を所有していたが、明治六年頃講員の溝尾治良才門の名義で地券を受けた(ただし、同人がそのころ耕作者であつたことは確認し難く、明治一五年には孫右ヱ門、傳治良ェ門の二人が作人であり、明治二一年には戸田孫三郎が作人であつた)。溝尾治良才門も宛米をいつたん講に納めその宛米代金のうちから公租公課分の支払を受け、自らの名義で納税していた。この土地は登記上、明治二八年一一月六日遺産相続を原因として溝尾徳松の所有名義となり、明治三九年一〇月二九日種子島源兵衛に売渡され同人名義に所有権移転登記された(この売却代金がいかに処分されたかについては的確な証拠がない)。

中谷宮座講は坂ノ下宮田四五六番田三畝二三歩なる土地を所有していたが、その所有名義は小作人である中谷従与茂であつた。この土地は同人からその相続人である中谷増治郎、中谷清治郎(大正一三年六月一九日同人名義に所有権移転登記)、中谷稔(昭和三九年六月一五日相続を原因とする所有権移転登記)へと逐次所有名義が変り、昭和四三年一〇月井上繁に売却されたが、その売却代金は耕作権を有する中谷稔が四〇パーセント、その余の講員が六〇パーセントを取得した。右所有名義人らは昭和一五年頃まで年貢として米五升を納め、公租公課は講員が口数に応じて分担していたが、昭和一六年頃から中谷稔が公租公課の全額を支払うようになつた。

(2)  明治初年頃河内国古市郡軽墓村(現羽曵野市)の西寄講は同所一一六番字ボケ側田五畝二八歩、二七三番字フケ田一反三畝二五歩を所有していたが、地券発行の際講員である当時の小作人名義で地券を受けた。この間の事情につき、明治二〇年一月二〇日右土地共有者らが作成した「共有地依頼書」と題する文書によれば、「右地所数年来其許方及自分共ノ共有地ニ有之候処地券御発行之節共有人相談ノ上字フケは麻喜一字ボケ側は梅原新平此両人ハ当時ノ小作人ナルヲ以テ不敢取其小作人ノ名前ニテ地券請致置候処」云々とあり、「共有地名簿江無代金ニテ加入御依頼書」と題する文書によれば、「右地所古来ヨリ西寄講ト唱ヘ継続家諸氏之共有地之処地券御発行之際ヨリ地毎壱名宛之持分ニセラレ」云々とある。

(3)  明治政府は明治五年大蔵省達第二五号をもつて「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」を制定し、地所の売買・譲渡による所有権移転の際に新所有者に地券を交付するものと定め、さらに同規則の追加である同年同省達第八十三号において全国の人民の従前より所持する土地にも残らず地券を交付することと定め、地券交付の準則として同年同省達第百二十六号「地券渡方規則」を制定し、明治六年末から七年にかけて地租改正処分に着手した。

そして、政府は右地租改正処分に際し、錯雑した複多的所有関係を整理して担税者を明確にするためにできるだけ一筆の土地を単一の所有者に属せしめる方針をとつた。これがいわゆる一地一主の原則である。

しかし、右原則は共有関係の存続を否定したものではない。永小作地に関しては明治七年二月一七日内務卿・大蔵卿連名の指令により、地主・小作人間の協議によつていずれか一方を所有者に決定し、協議不調のときは伺出て指示を受けさせるものとし、最終的には明治八年四月三日内務省指令により、地主と小作人との協議で「作株ヲ地主ニ買取ラスルカ又ハ地株ヲ小作人ニ譲渡サスル」かして、「可或丈一地両主ノ姿ニ不或様処分」するものとし、協議不調のときは「原主へ券状渡」すべきものとした。しかし、永小作地以外の土地で数人持・一村持あるいは数村持のものについては、これを単一の個人の所有に改めることを強制することをしなかつた。地租改正処分における土地の地種の決定に関して「地所名称区別」が制定されたが、明治七年太政官布告第百二十号の「改定地所名称区別」は、地種を「官有地」と「民有地」に二分し、官有地をさらに四種、民有地を三種に分ち、民有地には地券を発行するものとして、民有地第一種を「人民各自所有ノ確証アル」土地、民有地第二種ヲ「人民数人或ハ一村或ハ数村所有ノ確証アル土地」と規定している。

大蔵省達第百五十九号「更正地券渡方規則」第三十四条第三十五条には、村もしくは数村組合の入会山林原野等については「公有地地券」を交付するものと規定しているが、村持でない伊勢講田のごとき土地についてどのような地券を交付すべきか特に規定していない。当時筑摩県から伊勢講・妙義講と唱え一筆の土地を寄合所持し作徳(土地よりあがる収益の意と思われる)を積立ておいて参宮等の手当にしてきた者達が「銘限り引分方等差支候ニ付連印ヲ以地券願出候節ハ連名之一紙地券相渡候可致哉」と伺出たのに対し、明治五年九月二九日租税寮改正局は「申出之通、尤多人数ニ而券面ヘ認兼候節ハ、重立候者一名外幾人ト相認、連名別冊ニ為書出、券状ト割判いたし可相渡事」と指令している。その方式はその後の幾つかの指令によつて共有地一般に適用された。

明治初年当時和泉国日根郡脇浜村は堺県の管轄下にあつた。堺県においては地券の発行は明治六年八月頃から実施され、地券交付に関する事務は当時町村ごとに置かれていた戸長・副戸長等の村吏が行つた。

(4)  堺県は明治五年六月伊勢講などの講の廃止を命ずる布令を出しているが、その内容は別紙甲第二三号証のとおりである。堺市立中央図書館所蔵(鹿嶋圓次郎蔵)の古文書によれば、明治五年九月一二日区長名義で、先々月諸講御廃止仰せ出されたのに今以て報恩講・御影講に類するものを催おし多人数が集つて無益の失費をすることを聞くが、今後はそのようなことをしない様に、布令にそむけば捕亡方よりおとがめがあるから念のため再達するとの趣旨の布告が出されており、堺市博物館所蔵桜井神社文書「別宮八幡宮記録」によれば、「明治五年申八月天下一般諸講廃止被仰出候付」云々の記載があり、堺市史続編第六巻中には「明治六年八月座・講廃止令により中村結鎮座廃絶」との記述がある(なお堺県は明治一四年二月七日廃県となつた)。

講の禁止は他県でも行われた資料があり、山梨県では明治六年に「神佛に托タル種々ノ講中ヲ結フ事」を禁ずる布令を出し、若松県(現福島県)では講と称して故なく集会し酒宴をなし出費をすることを禁ずる布令を出している。

(六)  前記甲第三一号証(小野武夫「永小作論」。以下「永小作論」という)、山中鑑定及び弁論の全趣旨により成立の真正を認める甲第三七号証を綜合すると、次のとおり認めることができる。

(1)  旧幕藩時代以降の永小作は、①用益権たる永小作(これを更に成立の原因より分類して開墾永小作、土地改良永小作、分与永小作、買受永小作、留保永小作、認定永小作となしうる)②分割所有権たる永小作(土地分け永小作)③負担付所有権たる永小作(土地持永小作)に分類することができる。この分類による第一段階(①②③)の種別はもつぱら法理的観念に従つてなされたものであるから、成立の原因により分たれた第二段階の場合と相交錯することがある。たとえば、分割所有権たる永小作及び土地負担たる永小作であつて開墾に基づく永小作たる場合あるがごときである。したがつて、ひとしく開墾により起された永小作慣習であつても、その慣行の実体により区別して用益権に属するものはこれを開墾永小作とし、然らざるものはあるいは土地分け永小作又は土地持永小作とする。

②の分割所有権たる永小作とは、現行民法の思想とは相容れないところのものであるが、土地所有の権利を両分して一方はその土地の作徳(小作料)収納権(あるいは底地権)としてこれを有し、他方は実地使用権(あるいは上地権)としてこれを有するという観念である。土地分け永小作の例は家抱百姓が主人より土地所有権を与えられた場合などにこれを見ることができる。

③の土地負担たる永小作の例としては、次のような事例が存する。

ほんらい土地所有権は永小作人(農民)にあつたが土地所有が農民以外の者に禁じられたため、農民が農民以外の人々から金融を受けた場合、その債務弁済の方法として、永小作人(農民)の所有地上より一定の年貢(小作料)を債権者である金銭融通者に納入することが認められたことに基づくもの。

土佐の山内氏は、一方において郷士新田の開発を奨励するとともに、古田たる本田に対しては、幕府法の土地永代売買禁止令と同巧異曲な農民土地専有制度を立て、農民のみが土地を「所持」することを許し、士工商に土地を持つことを禁じた。それゆえ農民はその土地を他階級者に売ることができなかつたが、金融の方便上、一種の潜り道として債務弁済方法としてその持地の上より年々一定の加地子(小作料)を債権者たる金銭融通者に納入することを許した。この場合、加地子の取得者は外形上は一見地主のごとくであるが、実際は地主でなく、土地の所有権は依然として加地子の納入者たる債務者の手に残り、爾来加地子権と土地所有権とは分離して別々に取り扱われ、加地子権者は任意にその権利を他に譲渡し、土地所有者もまたその権利を任意に処分し、双方とも別個特別の物権として存在した。

往昔、共同開墾等に起源を発し、明治維新頃まで割地制度(一定期間を置いて耕作等に利用する土地をくじ等の方法によつて家毎に割り替える制度)を実施してきた村落においては、その村落内における土地制度の本質上土地そのものの所有権を他村人に売却することができなかつたので、金融の都合上やむなく他村人に売る場合には、地盤すなわち所有権を自己に留保し、その上に加地子の取得権を他村人に対し設定し、永世小作料を納入することを約したことに基づくもの。

これは、その形態、内容ともに前記の土佐の土地持永小作に類似している。

新田開発に際して開墾終了の上はその開発地を作人に与え作人は開発企業者に対し年々所定の作徳米(小作料と謝礼。永世米とも称する)を納入する約束をしたことに基づくもの。

この作徳米の収納者は当時の社会における特権者であるかまたは庶民中の有力者であるのが普通であつたから、これら新田の百姓は、実際においては土地の所有者であつたのにもかかわらず、社会上においては一個の作人として取り扱われ、他の一般新田の永小作人とえらぶところのない境遇のもとに置かれた。

このような事例は大阪府北河内郡四條村深野新田の永小作の場合にこれをみることができる。この場合は、作人が「先納銀」(地代銀ともいう)と称する入地料を納めたうえ、さらに開墾について労苦、貢献をしたことによつて、作人自らが「地主」と称するようになり、作徳米収得者もこれを認めるようになつたものである。

江戸時代寺領地を開墾してきた農民が明治維新の際官没されたその寺領地の払下げを寺領名義で受けた場合、寺は農民に開墾の労苦、貢献に酬いるため、その土地の永代地券を与えて農民の所有権を認める代りに農民が寺に対して一定の小作料を支払うことを約束したことに基づくもの。

明治一二年頃愛知県旧春日井郡吉根村の龍泉寺と称する寺院では、旧幕府時代より若干の寺領地を有し、維新の際官命により一旦これを上地したが、その土地はすでにかなり以前より龍泉寺の檀家衆たる百姓において開墾した関係よりして、その後寺院名義をもつて元百姓たる小作人において払下げを受け、その地に係る小作料は「相続米」と称し、百姓より寺に納めることを約し、寺はその土地より相続米を得ることとして、土地の支配はすべて占有者たる百姓に一任し、寺よりはその間何らの干渉をしないことを約した。そして寺より百姓に渡した「永代地券」にはその小作人のことを「持主」何某と記してその相続米地が百姓の所有地であることを明記した。この場合、寺院は単に相続米を得るのみであつてその土地の持主は永久に小作人であり、紛う方なき土地負担の慣習として見るべきである。これはすなわち、徳川時代において寺と百姓との間に土地負担なる特殊土地慣習が存在し、明治時代に入つてたまたまその証文面にあらわれたものであり、中世の寺社に対する上分寄進の土地負担慣行と脈絡相通ずるものである。

(2)  用益権たる永小作の証文においては、小作料の不納、滞納の場合は土地を地主へ返戻する旨の文言が入つているのが通常であり、土地分け永小作の証文においても土地返地文言が入つている事例を見ることができる。

これに反し、負担付所有権たる永小作の場合においては、耕作者が土地の持主なのであるから、この関係の証文においては、小作料の支払いを担保する旨の文言が入ることはあつても、小作料の不納、滞納の場合に土地を小作料収得権者へ返還する旨の文言が入るべきではない。ただ、前記の大阪府北河内郡四條村深野新田の例においては証文に返地文言が入つているが、これは小作人らが開発企業者を相手どつて起した共有権確認の訴訟に敗訴し明治一四年に和解をした際の証文である。

(七)  右(一)ないし(六)に認定した事実関係に基づけば、次のとおり判断することができる。

(1)  明治初年頃和泉国日根郡脇浜村(現貝塚市脇浜)及びその周辺の農村においては、伊勢講その他の講において田畑を所有(合有と観念される)し、講員の一人又は近隣に住む講員外の者にこれを耕作させ、その小作米又はこれに代る金員をもつて講の運営資金等にあてる慣行が存在した。本件岸上伊勢講もその種の講の一つであり、本件土地は岸上伊勢講の所有に属し、講員の一人である岸上兵与茂においてこれを耕作していた。

(2)  明治六年の地券発行に際し、岸上伊勢講では岸上兵与茂と相談の上同人個人名義をもつて本件土地の地券を受け、同人のため永小作権(用益権たる永小作)を設定し、小作料を年玄米二斗と定めた。甲第二号証(明治一四年証書で兵与茂より講に差入れたもの)に「右の田地古来より講中所持に候処、去る明治六年中地券発行に付、示談の上我等(註、山中鑑定は「我ガ」と読む)名儀に致し、永代作仕候に就ては、右田地徳内米より毎年現米弐斗づつ相納来り候」とあるのは右の趣旨に解するのが妥当である。

当時一地一主の原則が行われていたが、共有の土地について連名で一枚の地券を受けることが可能であつたことは前に見たとおりである。然らば本件土地について何ゆえ岸上兵与茂一人の名義をもつて地券の交付を受けたか、その実質的理由は証拠上明白ではない。控訴人ら主張の講禁止令の影響を考えることは可能であるが、確証はない。しかし、いずれにせよ、当時近隣の多くの講において講有の田畑につき講員の一名の名義を以つて地券を受けることが行われていたことは明らかであり、本件もその一場合であつたと認めることができる。

(3)  本件土地の地租は岸上兵与茂において支払つていたところ、明治八年に地租の改正(減額)があつたので、兵与茂の受ける利益がそれだけ多くなつた。そこで、講と兵与茂は協議の上、明治一一年二月二五日、明治一一年よりは小作料を一斗五升増加して三斗五升と定め、兵与茂の永小作権を確認し、乙第九号証と甲第三号証(明治一一年証書)を取り交わした。

(4)  明治一四年に至り、米価が格別高値になり兵与茂の利益が多くなつたとして、再び講側より小作料引上げの要求があつた。兵与茂側は明治一一年のことがあつたため容易にこの要求に応じなかつたが、三名の者が間に入つて仲裁の上、明治一四年三月七日、乙第一〇号証と甲第二号証(明治一四年証書)を取り交した。兵与茂作成の甲第二号証には、納付米を「万一壱ケ度にても不納仕候えば右田地講中へ草々戻し(註、大竹鑑定は「差戻し」と読む)申す可く候」とあり、いわゆる返地文言が書き入れられた。

(5)  岸上伊勢講は明治一八年岸上市三郎の名義で古畑地を買受けた(この土地が終始岸上伊勢講講員の共有であつたことは当事者間争いがない)。講員達は右古畑地と共に本件土地が講所有の土地であると認識していたため、講の帳簿に、古畑地を「講中処有之畑」「講中畑」と、本件土地を「大谷講中田」と記載し、また、「伊勢講地年貢」の横に古畑地と本件土地を併列的に記載し、それぞれの宛米の量を記録した。

(6)  岸上伊勢講の講員ら(被控訴人の先代を含む)は、本件土地より講に納付される米又はこれに代る金銭を小作料として認識していたため、伊勢講の帳簿にはこれを「宛米」「年貢」「年貢宛米」と記載し、この状態が昭和四八年まで継続した。

(7)  なお、被控訴人は、昭和四八年九月一二日当時の本件伊勢講の講員(被控訴人を除く)の代表者たる控訴人阪口治良一、同上野茂三郎、同石原武雄と被控訴人との間で、被控訴人から講に対して金二〇〇万円を支払うことにより本件土地についての負担約定を将来に向つて解消させる旨の合意が成立し、右合意に基づいて被控訴人は金二〇〇万円を支払つた旨主張し、被控訴人が金二〇〇万円を支払つたことは控訴人らの認めるところであるが、その際講と被控訴人との間で、被控訴人が往昔から講に対して負担してきた納付米(金)を将来に向つて解消させる旨の合意が成立したことを認めるに足る証拠はない。

(8)  以上のとおり判断することができる。

右(1)ないし(6)の諸点に照らすと、明治初年に岸上伊勢講が岸上兵与茂に対して設定した権利は用益権たる永小作権であり、本件土地の所有権は一貫して右伊勢講に属していたものと認めるのが相当である。これと相反する趣旨の大竹鑑定は採用しない。

(八)  被控訴人は、右判断と異なり、岸上兵与茂の取得した権利は負担付所有権である旨主張するので、被控訴人の挙げる諸般の根拠について更に検討を加えておく。

(1)  「永小作」ないしこれに類する名称を冠した権利関係であつても負担付所有権と認めるべき場合のあることは、前記「永小作論」(甲第三一号証)の教えるところである。しかし、右書物に紹介されている負担付所有権の事例は、農民が農民以外の者から金融を受けたが担保として土地所有権を移転することが禁止されているため、債務弁済の方法として一定の米穀(又は金員)を農民より債権者に納入することとした場合、往昔農民達が土地を共同開墾するなどして割地制度を実施してきた村ではその農地を他村の者に売却することができなかつたところ、金融のため必要ある場合所有権を自己に留保して永世小作料を債権者に納付することを約した場合、新田が開発され、開墾が終了した際開発企業者はその土地の所有権を作人に与え作人は開発企業者に対し年々所定の作徳米を納入することを約した場合、寺の所有地が維新の際官命により一旦上地されたが、その土地は檀家衆たる農民において開墾した関係から、その後寺名義をもつて小作人において払下げを受け、「相続米」と称するものを寺に納めることを約し、寺は土地支配の一切を農民に一任し、農民に渡した「永代地券」にはその小作人のことを「持主何某」と記した場合、などであり、いずれも小作人に所有権を認めるべき実質的理由の存する場合ないしは所有権を認めるに値する特別な寄与貢献の存する場合である。しかし、本件の場合、岸上兵与茂に特段に強力な権利を認めるべき特別な事実が存在したことを認める証拠は何もなく、むしろ、前記のとおり、明治一四年証書の兵与茂作成分には「右の田地古来より講中所持に候処去る明治六年中地券発行につき示談の上地券我等名儀に致し永代作仕候」云々とあるのであるから、前記の事例をたやすく本件の場合に推し及ぼすことはできない。また、本件講の周辺にもいくつかの講が存在し、それらの講も講運営資金等に充てる目的で田畑を講員又は近隣の第三者に耕作させていたことが認められるが、それらの耕作関係もいわゆる負担付所有権に基づく耕作関係であるとは認め難く、それらの土地と本件土地との間に質的に相違するような事情が存在していたことを窺うべき証拠もない。

(2)  前記乙第九号証(明治一一年証書で講作成分)には「自今貴殿に於て地所は御勝手次第に永世御所持なし下さるべく」云々とあり、乙第一〇号証(明治一四年証書で講作成分)には(右田地は貴殿へ永代所持致すため」云々とあり、永世所持とか永代所持とかは所有権の移転を意味するもののごとく見えないではない。しかしながら、甲第二号証には前記のとおり「万一壱ケ度にても不納仕候えば右田地講中へ草々戻し(又は差戻し)申す可く候」との文言があるのであつて、この返地文言は負担付所有権を認めた証書に適当なものではなく(大竹鑑定も返地文言が原則的・理論的には負担付所有権の証文に不要であることを認める)、さきに挙示した諸般の事実関係をも参照して綜合的に考察すると、右の永世所持とか永代所持とかは、永小作、すなわち用益権たる永小作の意義に解釈するのが相当である。また、右乙第一〇号証中の「萬一自今右田地に付彼是故障申す者これ有る節は右田地貴殿御勝手次第に他へ売拂い代価貴殿弁用に致し呉れ候共講中一言も申分御座無」とあり、一応は所有権移転を意味するごとき表現となつているが、前同様の綜合的観察によれば、右の田地とは永小作権の意味に解すべきものであると考えられる。大竹鑑定は、本件各証書の文言を重視し、その担保文言、埒明(らちあけ)文言は田畑譲渡証文の類型に属し耕作者に負担付所有権を認めた証書にふさわしいものであるというのであるが、指摘にかかる文言が必らず負担付所有権の証書の意に解しなければならぬ程の文辞であるとは認めることができない。

(3)  被控訴人は、本件土地と古畑地とは所有名義、納税者、耕作者、納付米の量等が相違する旨を強調する。しかし、古畑地は明治一八年に至つて購入された土地であり、取得の時期を同一にしないし、週辺の諸般の事情を異にしたことも考え得るから、古畑地が講員の共有名義になつていることから当然に本件土地が講員の共有でないとの結論を導き出すことはできない。また、納税者が岸上兵与茂及びその後継者であつた点は地券名義及び登記上の所有名義に随伴するものと考えることが可能である。近隣の講の耕作者の中には講へ納めた小作料の内から公祖公課分を受け取つていた事例もあるが、この事例との差は本件の争点に決定的に重要なものであるとは考えられない。本件土地の耕作者が古畑地と異なり被控訴人家に一定していたことが直ちに所有権の帰属を意味するものでないことは当然である。納付米(金)の量が古畑地に比して低額であつたことも、本件土地が昔から岸上兵与茂の耕作地であり本件土地の小作料に関しては明治一一年及び明治一四年の経緯があり文書により増米しない旨の確約が存したことを勘案すれば、必ずしも不自然とはみられない。古畑地の納付米について免引(小作料の減免)があり本件土地の納付米について免引がなかつたのであるが、免引の有無を直ちに小作地と然らざる土地とを区別する基準となし難いばかりでなく、古畑地が収穫の少ない土地であり必ずしも耕作を担当することが喜ばれない土地であることを考慮すれば、この点も被控訴人の主帳の支えとなすに足るものではない。

(4)  本件土地の所有権を表象する地券や権利証が講において保管されず、岸上兵与茂及びその相続人において保管されてきたことは明らかである。また、本件講においては、本件土地が実質上講の所有である旨の念書その他の書面も徴していなかつたものと推認される。しかしながら、本件土地が講の所有であることは周辺近隣の者の間では自明のことであり、永年にわたつて形成された村落共同体構成員相互の信頼関係が極めて深いものであつたため、今日の一般市民間に見られるような権利保全の措置が講ぜられなかつたものと考えられる。なお、本件講以外の他の講においてその耕作者から念書その他の書面を徴していたことを疑うべき証拠もない。本件土地につき被控訴人家の者により再三抵当権の設定がなされたことも前に見たとおりであるが、議員達はそのことを知らなかつたかも分らないし、仮りに知つたとしても被控訴人家の返済能力に不安を感じない場合は別段異議を申し立てないこともありうるであろう。戦後の農地改革の際、講の側も被控訴人の側も小作地としての措置をとらず農業委員会にも小作地としての届出がなされていないことも前認定のとおりであるが、実質上の耕作関係にさしたる差異が生じないことが予想される場合、煩瑣な手続をとらないこともありうると思われる。昭和二八年及び昭和三七年に本件土地の一部が道路として貝塚市及び国(建設省)に譲渡されているが、公益上の必要のため僅かな土地部分が譲渡されたのにすぎないから、仮りに講員においてそのことを知つたとしても敢て異議をさしはさまなかつたと考えてさして不自然ではない。本件土地の小作料が戦時中及び戦後において著るしく低額であり、使用収益の対価たるに値しないものであつたとしても、当時においては一般の小作料そのものが統制の下にあって一般物価に比し著るしく低額であったことを考慮すれば、何ら異とするに足ることではない。

(5)  すると、被控訴人の援用する諸点は本件土地の所有権が負担付で岸上伊勢講より岸上兵与茂に移転された旨の主張の支えとなすに足るものではなく、ほかにさきの認定を覆えして被控訴人の右主張を認めるに足る証拠はない。

(九)  以上の考察によれば、本件土地の所有権が明治六年もしくは明治一一年に負担付をもつて岸上伊勢講より岸上兵与茂に移転された事実はなく、むしろ明治六年に右伊勢講より兵与茂に用益権たる永小作権が設定されたにすぎず、本件土地の所有権は明治初年以降今日に至るまで右伊勢講の所有(その講員の共有)であつたと認めるべきものである。

三被控訴人は、仮りに負担付の所有権の移転なる事実が認められないとしても時効により本件土地の所有権を取得した旨主張する。被控訴人の先祖岸上兵与茂及びそれに続く相続人らが明治初年以来一貫して本件土地を占有していたことは明らかであるけれども、前認定の事実関係によれば、右占有は所有の意思をもつてする占有ではないというべきであるから、右取得時効の主張は理由がない。

四<証拠>によれば、控訴人らの主張(原判決事実摘示四、当判決事実摘示控訴人らの主張(三))のとおり、一部当事者の死亡による持分の相続及び一部当事者の講脱退による持分の移転及び本件に関する一切の権利の譲渡が行われ、控訴人らの本件土地に対する持分の割合は、当判決添付別紙変更後共有者持分一覧表のとおりになつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

すると、控訴人らの被控訴人に対する別紙物件目録(一)記載の土地につき控訴人らが別紙変更後共有者持分一覧表記載の各共有持分権を有することの確認を求める請求及び右土地につき右一覧表記載の各持分移転登記手続を求める請求は理由がある。

五<証拠>を綜合すると、被控訴人は本件講の講員らの抗議にもかかわらず本件土地が講員の共有であることを否認し、昭和四八年六月一三日自己所有の土地であるとして本件土地(二)を貝塚市土地開発公社に代金一三六五万円で売渡し、同額の金員を受領しながら本件講に対しては金二〇〇万円を交付したのみであること、貝塚市土地開発公社は本件土地(二)の登記上の所有名義が被控訴人となつているところからこれを被控訴人の個人所有の土地であると信じて買受け、前認定のとおり昭和四九年一月三〇日公社に対する所有権移転登記を経由したことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。そうすると、当時における本件伊勢講の講員である共有者らは民法九四条二項により右売買の無効を開発公社に対抗することができず、それぞれの共有持分を喪失させられ、持分の時価の損害を被つたというべきであるが、ほかに特別の事情の認められない本件においては、右開発公社に売渡した代金の額をもつて時価と認めるのが相当である。そして、前認定の一部の講員の死亡により損害賠償債権の相続が行われ、また一部の講員の訴訟中の講脱退により損害賠償債権の譲渡が行われたため、本件控訴人らの被控訴人に対する損害賠償債権の額は本判決添付別紙変更後請求金額一覧表のとおりになつたというべきである。

そうすると、控訴人らの被控訴人に対する右一覧表記載の金員及びこれに対する不法行為の日である昭和四九年一月三〇日から完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める請求は理由がある。

六次に、<証拠>によれば、昭和四九年六月当時の本件伊勢講の講員は被控訴人に対する本件土地の使用収益権を取り消すことを決議し、弁護士菅生浩三ほか二名を代理人として、昭和四九年六月五日付の内容証明郵便により、被控訴人が本件土地が講の共有財産たることを否認し年貢の納入及び土地管理に関する協議に応せず本件土地を他に売却しようとしていることを理由とし、本件土地の使用収益権付与の合意を取り消す旨及び書面到達後一か月以内に本件土地の明渡しを求める旨通告し、右郵便は同月六日被控訴人に到達したことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。右通告は本件永小作権設定契約解除の意思表示に該当すると解することができ、永小作者が永小作地の一部を所有者の承諾を得ることなく他に売渡しその所有権を喪失させた行為は永小作権設定契約を解除する事由となるものと解されるから、本件永小作権設定契約は右解約の申入れによつて有効に解除されたといわなければならない。

この点に対し、被控訴人は、本件契約解除は農地法に定める知事の許可がないからその効力を生じない旨主張し、知事の許可のない点は控訴人らの自認するところである。しかし、前認定のとおり本件土地についての耕作権は賃借権でなくして永小作権であり、賃貸借契約の解除について知事の許可を要することと定めた農地法二〇条は永小作権には適用又は準用はないと解すべきである(最高裁判所昭和三四年一二月一八日判決、集一三巻一三号一六四七頁参照)から、右主張は失当である。もつとも、この点については、賃貸借設定契約の解除について知事の許可を要するのにそれよりも強い権利である永小作権の設定契約の解除について知事の許可を要しないものとするのは不当であつて当然農地法の右規定の類推適用があるべきであるとの見解もあり得ると思われるが、農地法二〇条二項各号所定の事由は知事が同条による許可を与えるについての要件であつて農地の賃貸借の解約権の発生ないし行使の実体的要件をなすものではない(最高裁判所昭和四八年五月二五日判決、集二七巻五号六六七頁参照)のに反し、永小作権の場合は耕作者の背信性等は当然解除の実体的要件をなし裁判所の審査を受けるのであるから、永小作権者が必ずしも当然に賃借権者に比して不利益な取扱いを受けるものとはいえず、賃借権の場合と永小作権の場合との取扱いが異なることは立法の裁量の範囲内であると解されるから、さきの結論を左右しない。

そうすると、控訴人らの被控訴人に対する本件土地(一)の引渡を求める請求は理由がある。

七以上の次第であるから、控訴人らの被控訴人に対する本訴請求は全部理由があり、認容すべきものである。これと判断を異にする原判決は失当で、本件控訴は理由がある。

よつて、原判決を取消し、控訴人らの請求を認容する裁判をすることとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法九六条八九条を適用の上、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官今中道信 裁判官露木靖郎 裁判官齋藤光世)

物件目録(一)

(1) 貝塚市脇浜字大谷一〇〇番一

田   五四九平方メートル

(2) 同 所 一〇一番一

田   三八九平方メートル

(3) 同 所 一〇一番三

田   三〇九平方メートル

物件目録(二)

(1) 貝塚市脇浜字大谷一〇〇番四

田   二二平方メートル

(2) 同 所 一〇一番四

田   四〇八平方メートル

変更後共有者持分一覧表

共有者    持 分

岸 上 ヲサメ 三三六分の一

岸 上 完一郎 六七二分の一

植 田 喜代子 六七二分の一

岸 上 賀代子 六七二分の一

岸 上 登代子 六七二分の一

田 辺   昇 二二四分の一

田 辺 佳与子 二二四分の一

中 野 フサ子 一一二分の一

文 野   貞 一一二分の一

岸 上 頼 仁 一一二分の一

藪 内 八末子 一一二分の一

矢 野 峯 子 一一二分の一

梅 園 カツ枝 一一二分の一

神 前 喜代春 一六八分の一

神 前 健 次 一六八分の一

平 井 マサヱ  八四分の一

神 前 道 雄  八四分の一

川 上 キミコ  八四分の一

神 前   勇  八四分の一

白 川 スヱ子  八四分の一

高 田 吉 松  一四分の一

早崎 ミヤギク  四二分の一

早 崎 豊 子 一八九分の一

早 崎 好 修 一八九分の一

藪   栄 子 一八九分の一

早 崎 カヨ子  六三分の二

神 前 広 一  一四分の一

櫛 本 庄 助  四九分の一

櫛 本 為二郎  四九分の一

縣   キヌヱ  四九分の一

大 植 良 民 一四七分の一

渋 谷 成 子 一四七分の一

大 植 房 男 一四七分の一

櫛 本 利 男  四九分の一

櫛 本 紗喜子 一四七分の一

櫛 本 恒 一 一四七分の一

櫛 本 千 穂 一四七分の一

城 野 キヨ子  四九分の一

神 前 マ サ  四二分の一

神 前 正 雄  二一分の一

上 野 茂三郎  一四分の一

東   セツヱ  四二分の一

東   貴代治  二一分の一

阪 口 良 晴  二一分の一

阪 口 モゝヱ  四二分の一

戸 田 兵 三  一四分の一

武 本 ヨネ子  四二分の一

石 原 武 雄  四二分の一

武 本 ヤスヱ  四二分の一

(以上控訴人)

岸 上 寛 一  一四分の一

(被控訴人)

変更後請求金額一覧表

控訴人    金 額(円)

岸 上 ヲサメ 三四二一四

岸 上 完一郎 一七一〇七

植 田 喜代子 一七一〇七

岸 上 賀代子 一七一〇七

岸 上 登代子 一七一〇七

田 辺   昇 五一三二二

田 辺 佳与子 五一三二二

中 野 フサ子 一〇二六四四

文 野   貞 一〇二六四四

岸 上 頼 仁 一〇二六四四

藪 内 八末子 一〇二六四四

矢 野 峯 子 一〇二六四四

梅 園 カツ枝 一〇二六四四

神 前 喜代春 六八四二九

神 前 健 次 六八四二九

平 井 マサヱ 一三六八五九

神 前 道 雄 一三六八五九

川 上 キミコ 一三六八五九

神 前   勇 一三六八五九

白 川 スヱ子 一三六八五九

高 田 吉 松 八二一一五四

早崎 ミヤギク 二七三七一七

早 崎 豊 子 六〇八二五

早 崎 好 修 六〇八二五

藪   栄 子 六〇八二五

早 崎 カヨ子 三六四九五六

神 前 広 一 八二一一五四

櫛 本 庄 助 二三四六一五

櫛 本 為二郎 二三四六一五

縣   キヌヱ 二三四六一五

大 植 良 民 七八二〇五

渋 谷 成 子 七八二〇五

大 植 房 男 七八二〇五

櫛 本 利 男 二三四六一五

櫛 本 紗喜子 七八二〇五

櫛 本 恒 一 七八二〇五

櫛 本 千 穂 七八二〇五

城 野 キヨ子 二三四六一五

神 前 マ サ 二七三七一七

神 前 正 雄 五四七四三五

上 野 茂三郎 八二一一五四

東   セツヱ 二七三七一七

東   貴代治 五四七四三五

阪 口 良 晴 五四七四三五

阪 口 モゝヱ 二七三七一七

戸 田 兵 三 八二一一五四

武 本 ヨネ子 二七三七一七

石 原 武 雄 二七三七一七

武 本 ヤスヱ 二七三七一七

(合計 一〇、六七四、九七九円)

(乙第九号証)

為取換約定証書

一 米 三斗五升

右者去明治十年迄ハ現米弐斗づつ貰請来リ候処今般地租改正ニ付双方示談之上本年ヨリ壱斗五升増加致し貰都合前書通三斗五升づつ毎年両度ニ相渡呉候得は自今貴殿於テ地所ハ御勝手次第ニ永世御所持可被成下候萬一地面ニ付彼是故障申者有之節ハ調印之我等罷出急埒明貴殿へ少し茂御迷悪相懸ケ申間敷候為後日為取換約定証書依而如件

和泉国三大区三小区

日根郡脇浜村

講 元

明治十一月二月廿五日

岸 上 徳治郎

同 惣 代

櫛 本 與 平

同 村

岸 上 兵与茂殿

(甲第三号証)

為取換約定証書

一 米 三斗五升

弐斗 毎年正月廿六日納

壱斗五升 同五月廿六日納

右ハ昨年迄現弐米斗づつ相渡し来リ候処今般地租改正ニ付双方示談之上本年ヨリ壱斗五升増加致し都合前書三斗五升ハ何ケ程之干損水損有之候共定米ニテ毎年両度ニ無滞相渡し可申候万一本人等閑之節ハ此証人江引請急度相渡し可申候為後証為取換約定書依而如件

和泉国三大区小三区

日根郡脇浜村

明治十一年二月廿五日

岸 上 兵与茂

右同村証人

岡 本 楠二郎

講 元

岸 上 徳治郎殿

御講中

(乙第一〇号証)

為取替約定証書

第百番

字大谷

一 六等田 五畝廿四歩

第百壱番

字同所

一 六等田 九畝拾五歩

前書田地往古伊勢講所有ニ罷在候処去ル明治六年ニ地券発行ニ付講中示談之上右地券ハ貴殿所有ニ致シ右田地徳米内ヨリ毎年宛米弐斗づゝ相納メ呉来リ候処去ル明治八年中地券及地租御改正ニ付租税減少ニ相成リ候ニ就テハ右田地徳米多分出来候因テ又候講中相談之上去ル明治十一年中ニ講元岸上徳二郎及ヒ講中惣代トシテ櫛本與平右両人ヲ以テ貴殿へ段及依頼同年ヨリ現米壱斗五弁づゝ増加致シ貰都合三斗五升宛相納メ呉候得は右田地ハ貴殿江永代所持為致決而後日故障口論迷悪等相懸ケ申間敷云々為取換一札差入有之処今般米価格別高直ニ付右徳米相増候様相考候ニ付又候講中相談之上増米致呉ト講中与貴殿へ引合ニ参リ候処前約定之廉ヲ以請付呉不申候ニ付無致方夫ヨリ同村高間吉与茂武本茂才茂桝谷太才茂右三人ノ仲人ヲ以テ段及依頼候末村役前へ双方御呼集メ相成リ色御理解之上御取扱ニ相成本年与壱斗七升五合づゝ増加致し貰候ニ付本年ヨリ毎年正月廿六日都合五斗弐升五合宛無滞相納呉候得は向後決而右田地ニ付増米勿論引戻し抔ハ決而申間敷候萬一自今右田地ニ付彼是故障申者有之筋ハ右田地貴殿御勝手次第ニ他ヘ売佛代価貴殿弁用ニ致呉候共講中一言申分無御座為後日為取換約定書証依而如件

和泉国日根郡脇浜村

明治十四年三月七日

岸 上 徳二郎

(外一九人氏名・印略)

取扱人同村

高  間 吉与茂

(外二人氏名・印略)

前書之通相違無御座候依而奥印候也

右村惣代

日出九左與茂

岸 上 兵治郎殿

(甲第二号証)

為取換約定証書

第百番

字大谷

一 六等田 五畝廿四歩

第百壱番

字同所

一 六等田 九畝十九歩

右之田地古来ヨリ講中所持ニ候処去ル明治六年中地券発行ニ付示談之上地券我等名儀ニ致シ永代作仕候ニ就テハ右田地徳米内ヨリ毎年現米弐斗づつ相納来リ候処去ル明治八年中地券及地租御改正ニ付租税減少ニ相成候依テハ右田地徳米多分出来候ニ付講中相談之上講元岸上徳二郎及講中惣代トシテ櫛木與平右両人ヨリ段々御依頼ニ相成候ニ付去ル明治十一年ヨリ現米壱斗五升宛相増シ都合三斗五升づつ毎年相納可申約定相整候ニ就テハ向後は我等へ右田地永代所持為致自今増米ハ勿論迷悪等相懸ケ申間敷云々為取替約定之証申請有之処又候本年講中相談之上増米致呉抔ト引合ニ相成候得共去ル明治十一年中為取替約定書ニ基キ増米等相断申候処夫ヨリ仲人トシテ高間吉与茂桝谷太才茂武本茂才茂右三人ヲ以テ段段御依頼ニ相成リ候得共講中へ対シテハ増米致シ不申候得共仲人ノ廉ヲ以テ其際ニ現米壱斗増加致候旨申候処示談行届不申候ニ付其末村役前へ双方御呼出ニ相成リ色々御理解之上御取扱被成下候ニ仲人及役前御取扱之廉ヲ以本年ヨリ現米壱斗七升五合づゝ増加致シ都合五斗二升五合づゝ毎年正月廿六日に無滞相納可申候万一壱ケ度ニテ茂不納仕候得は右田地講中へ草々戻し可申候為後日為取換約定証書依而如件

和泉国日根郡脇浜村

岸 上 兵与茂

明治十四年三月七日

証人同村

岡 本 楠次郎

(外三名氏名・印略)

伊 勢 講 御中

前書之通相違無御座候依テ奥印仕候也

右村総代

日出九左與茂

(甲第二三号証)

是迄町村ニ於テ伊勢講或は山上講愛岩講抔と唱ヘ其余種々之名目相立講

金等取建来候得共以来右講事惣而相廃止候事

但シ講名看板等掛置候場所速ニ取除可申事

壬申

六月 堺縣庁(御印)

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